弱められる恵み ________________________________________ 高橋義夫兄 (大阪福音集会、2019/1124) 引用聖句:コリント人への手紙第2、12章9節 9 しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。と言うのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ私の弱さを誇りましょう。 いつも、私自身が学びたいことをテーマに選ぶのですけど、今日は、「弱さの中に働かれるイエス様」と言うことについて、少しの時間、共に学べ恵みに預かれたら感謝だなあと思います。 この前、司会のときにも少し話しましたが、30年前の奄美大島キャンプで、メインのホテルから離れたさびれたホテルで、小田兄と大須賀兄と 私と3人で、夜ゆっくりと交わりました。大須賀兄はノイローゼ。小田兄は奥様が双極性障害、よっちゃんも、睡眠障害になってて。で、みんなで ハイの時よりデプレッションの時のほうが、イエス様に近いよねって話しをしました。 前に神様が私たちに休止符をくださる時があると言うことについて学びました。何度か紹介しましたが、山口博子さんの詩をもうう一度、復習してみたいと思います。 少し説明しますと、ゴスペルシンガーの山口博子さんは潰瘍性大腸炎という難病にかかり、10回以上の入退院を繰り返したそうです。人生に失望した彼女が、ラジオ番組を通して聖書に出会い、教会に行き、神を信じるクリスチャンになりました。 その結果、ご自分の病気の中にも最善にはたらいて下さる神のご計画を信じ、次のような歌を作りました。 『「時を忘れて」 目を閉じなければ見えない世界がある 口を閉じなければ言えない言葉がある 耳を塞がなければ聞こえない声がある 歩み止めなければ会えない人がいる 少しぐらい遅れたとしても 大切なものを見つけたいから 道であり真理であり命である主に 尋ね求める時を忘れて』 本当に私たちは愚かな者で、元気に歩んでる時、順風満帆の時って、逆にたくさんのものが見えなくて、たくさんのものが聞こえなくて過ごしているんだなあと思います。 それが、神様が、失敗であったり、病気であったり、意に沿わないことかもしれないけど、強制的に休まされる時に、見えることがあるのかなあということも学びました。 マタイ20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。 マタイ20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」 マタイ20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。 マタイ20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」 マタイ20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」 マタイ20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。 エリコの盲人が、イエス様に叫ぶことができたのは、叫ぶ意外に方法がないと言う所に立たされたからに思います。この盲人も、叫ぶために弱められた人に思います。 彼が自分の目でイエス様を見る事ができたら。自分の力でイエス様のとろこに歩いて行けたら、彼は、叫ぶ事はなかったと思います。38節の「ダビデの子よ私をあわれんでください。」の叫びは自分が見えない状態、苦しい状態から解放されるのは、イエス様のあわれみ頼るしかない、恵みに頼るしかないと言う叫びに思います。  ヨーロッパのクラシック音楽とか、バッハのロ短調ミサとか、いろんな教会音楽だと ラテン語で、主よ憐れみ給え キリストよ憐れみ給えって、 キリエ エレイソン クリステ エレイソンって、エレイソン エレイソンって 憐れみたまえ って歌詞の繰り返しが続きます。  きのうも、玉出の家庭集会で学びましたが、その祈りにこたえて イエス様は、私たちを憐れんで、かわいそうに思ってくださいます。 ギリシャ語で、スプランク・ニゾーマイ はらわたがひっくり返る それほど、わたしたちを憐れんでくださるイエス様であること。 わたしたちは弱さを持つことを嫌います。もっと元気だったら。この病気がなかったら。もっとお金があったら。でも、イエス様は、わたしたちが弱さの中に置かれて、もっともっとイエス様に叫ぶのを学習させられる。 いま、ちょうど、長男の義矢が、救急車に乗っていますが、4月から隊長になって、3人チームで、とても仕事がたいへんで、心も疲れて、沈み込んでいます。それで、よく電話をくれて、話しをする機会が増えています。 コリント人への手紙第I、1:27 27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 イエス様は弱い者を選ばれるとあります。自分の力でこの世を歩もうとする者は選ばれない。 コリント人への手紙第II、12:9 9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 弱められた人の代表で、ヨナさんの祈りをもう一度ふりかえって終わりたいと思います。 ヨナ書2:2-7 2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。 3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。 4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。 5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。 6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。 7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。 わたしたちは、みな衰え果てる体験が必要なんだなあと思います。わたしたちは、案外イエス様に近いよと思ってる時は、本当はイエス様から遠い所にいる。 わたしたちは、もうダメだもうおしまいだと思ってる時に、イエス様にめちゃ近いところにいるのではないかと思います。 「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき」これがヨナの祈りのキーワードのひとつと思います。 18歳のときにイエス様に出会い。それからずっと振り返って、随分、傲慢な歩みをしてきたなあと思います。 礼拝の中で、よく詩篇が開かれます。 詩篇42篇 詩篇42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 詩篇42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 詩篇42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。 詩篇42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 6 Here in exile my heart is breaking, and so I turn my thoughts to him. He has sent waves of sorrow over my soul; chaos roars at me like a flood, like waterfalls thundering down to the Jordan from Mount Hermon and Mount Mizar. 混乱が洪水のように私にほえたける ヘルモンとミツァルの山からの水が滝になってなだれ落ちるように けれども 5節にあるように、そんな時こそ、神様を待ち望みなさいと語られます。 篇70:5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。 いま、わたしたちの家族の祈りは、これだなあと思います。 1列王17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」 1列王17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」 1列王17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」 1列王17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」 1列王17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。 1列王17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」 1列王17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。 1列王17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。  このやもめもまた絶望して弱められた人でした。 12節で、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。大きな絶望でした。 でも、エリヤの言葉は、「かめの粉はつきず つぼの油はなくならない。」でした。 わたしたちは、にぶいものですから、このかめの粉とつぼの油のなくならない体験を積み重ねて イエス様の信頼を学んでいくのかなと思います。