【1】主が、私たちに語りかけられる時−深い淵
2016年7月17日(日曜) 大阪集会 高橋よっちゃん兄


篇130:1−2

130:1 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。


みなさんは、吉本新喜劇の 花月旅館のセットをご存知でしょうか。
花月旅館に、変わったお客さんが つぎつぎと来るのですが、舞台中央のお部屋に行く階段が、茂造さんや登場人物の合図で、突然、「階段が すべり台」になってしまいます。
 そして、あちゃ〜と元気よく階段を上りはじめたお客さんが、ずっこけて落ちて着ます。

 この「すべり台になる階段」は、吉本あるあるアンケートでも人気最上位になっています。 あれを、見ながら、ほんとうに、私たちの信仰生活そのものだと思います。お肉の力で元気よく張り切って上ろうとすると、どーんと、イエス様が合図して、階段だったはずが、すべり台になって、あちゃ〜とずっこけて落ちてしまいます。

 メッセージやら、家庭集会が近づくと、どうしても、肉の思いで、がんばらなければならない、張り切らなければって、よくない思いが起こるのですけど、神様が、いつも ちゃんと、がんばれないように、弱めてくださるから感謝です。

 先週、金曜か、右上腹部痛になったり、わたしは、胆石も腎結石もあるのでそれ系かなって、今週は、月曜日に血液検査して、火曜日の朝に、エコーをして見てもらったら、そうじゃないみたいで、原因は不明なんですけど、ちゃんと、弱められて感謝だなあと思います。

 今日は、神様が私たちに語られるのは、詩篇の「深い淵」ではありませんけど、私たちが、にっちもさっちもいかない所や、理不尽なところや、誤解の中や、苦難の中に置かれる時に、その事を通して、神様は語られているんじゃないかなって事を、共に学べたら幸いです。

 証しでも何度も語っていますので、重なりますけど、私にとって「人生は、ままならない。」「生きて行くのは、たいへんだ。」と知った体験は、中学2年生の時でした。私は、肋膜炎に、小児喘息に病気ばかりしている子だったんですけど、病気だったり、学校に行けなかったりとか、案外慣れるものだなあと思います。 ずっとひとり ふとんに寝っ転がって本を読んでる、比較的おとなしい病人だったと思います。

 で、夏になるとよく肋膜炎が再発したんですけど、中学2年生の時に、肋膜炎の再発がなかって、戸田先生って、軍医上がりの開業医さんにかかってたんですけど、その戸田先生が、「 要注意の上、水泳可能 」って診断書を書いてくれました。

 夏のプールサイドって、暑くて、みんなが楽しそうに泳いでる時に、プールサイドって、ずっと ぼーーとしてるって、なかなかキツイんですけど、みんなと一緒にプールに入れるってその診断書は、私にとって、とても意味の大きなものでした。

  夏が近づくある日の昼休み。私は、その戸田先生の書いてくださった診断書を持って、体育教官室へ行きました。 証しで、一回聞いてくださった方はすみません。体育教官室に入ったら、たばこの煙がゆらゆらで、担当の体育の先生は、イスに足をのせて、たばこを吸ってました。

 私は、体育の先生も喜んでくれて、「高橋君、良かったね。この夏は、一緒に水泳がんばおう。」って言ってれる、そんなシーンを想像していました。

 ところが、その先生は、面倒そうに戸田先生の診断書を見て、それから、開口一発、こうおっしゃったんですね。「 お前は、あほか!」 「なんで、要注意の生徒を泳がすのや。」「お前、こんな診断書、無理言うて書いてもろうたんやろ。」 そう怒り出しはったんですね。

 で、プール授業に必要な水泳カードももらえなかったんですけど、その中学生の時の記憶がすごく心に残っています。ひとつは、いままで、病人だから みんな労ってくれる、労られて当然のように思ってたんですけど、自分が生きていかないと世界は、病人が邪魔な人もいるキビシイ世界なんだなあって言う事を知りました。 もう、ひとつは、この世界の中で、弱い者が生きていくのは、たいへんな事なんだあと思いました。

 その日、すごい落ち込んだのを覚えています。中学2年って、13才くらいですかね。ほぼ50年近く前ですけど、その日のシーンを覚えています。

 「人生ままならない。」って、知った日でした。


 みなさんは、「人生ままならない。」「人生たいへん」って知ったのは、いつでしたでしょうか。その時は、みことばも、福音も語りかけもなかったですけど、いま、振り返ると、イエス様が 私にあの時も、語りかけようとされていたんだなあと思います。
 きっと、みことばを聞く前の事を、たくさんふりかえってみると、イエス様に心を耕される体験がたくさんあるのだろうなあと思います。


つづく

【2】主が、私たちに語りかけられる時−深い淵
2016年7月17日(日曜) 大阪集会 高橋よっちゃん兄

 「深い淵」は、ヘブル語検索で ヨブ記に4回、詩篇に4回、ハバククに1回 申命記に1回 の10回も旧約聖書に出て来ます。

  詩篇69:2(891)
69:2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。

  詩篇88:6(912)
88:6 あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。

  詩篇130:1−2
130:1 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。


  ベック兄がよく「困らないと祈らないでしょう」っておっしゃいますけど、その時はまだ、未信者で、ぜんぜん気がついていなくても、ああ、あの時も、イエス様は、私に何かを語ろうとされてたんだろうなあって 時が、私たちの歩みの中にたくさんあるかもしれません。

  昨日も、西神家庭集会のメッセージで、1列王記17章が出て来て、最近、ここを通して、イエス様が私に語ってくださっているのを特に覚えます。

  
1列王記17章17章3〜6  ケリテ川のところも、前にもメッセージで引用して私の大好きなところです。

17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。


 ケリテ川に逃げ場があって、救われたと思った。私たちも、ここで救われました。ここに私の安息がありました。そう告白していたら、そこのケリテ川の水が涸れてしまう体験を、信仰生活で体験するのではないでしょうか。そこも、また、ふりかえって気がつけば、イエス様が私たちに語られていた時のように思います。

 わたしたち夫婦は、上ふたり、よしや君とハンナちゃんと子供が小さい時は、ずっと、真奈美の父と母が入院して闘病していて、週末になると、病院にお見舞いに行くと言うスケジュールが多かったです。 真奈美の両親もイエス様を知って救われましたし、わたしたちもクリスチャン・ファミリーで大丈夫と思って居たら、ぜんぜん、大丈夫ではなくなりました。

 両親が召された後、真奈美の妹の鬱が重くなって、相談にのっているうちに真奈美も体調崩して、わたしは、くずれないと思ってたんですけど、私も体調崩して、家族・親戚総倒れ、総くずれと言うのを体験しました。

 きっとそれが、わたしたちにとって、ケリテ川が涸れた体験と思うのですけど、ケリテ川が涸れても、その先に、また神様の救いがありました。


17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。

17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。


  これは、イエス様の恵みは尽きない、希望は途切れないって、聖書の宣言に思います。恵みの深みに、そうやって入っていくのだなあと思います。

つづく


【3】主が、私たちに語りかけられる時−深い淵
2016年7月17日(日曜) 大阪集会 高橋よっちゃん兄

 列王記の17章を読んでいて、わたしは、いつも、もうこれで十分でしょう。
もう、これ以上、やったら やり過ぎよと思うのですけど、聖書は、これで、終わらない。第三弾があるんですね。


17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。

 ここを 読んだら、本当に、「もう いいやん。十分やん。やめたげてよ。」と叫んでしまうのですけど、第3段の試練が来てしまいます。

 18節は、本当に わたしたちの姿ですね。

17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」

17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえた。

17:20 彼は主に祈って言った。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」

17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」

17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。

17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡した。そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」

17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」


  「主のことば真実であることを知りました。」って「主の恵みが真実であることを知りました。」って事と思うのですけど、随分、長い道のりだなあと思いました。
 
  

 わたしは、だいたい朝に小一時間、夜に小一時間、ご町内を徘徊してて、徘徊老人なんですけど、いま、スマホで ろばのこサーバーで メッセージとか証しが聞けるので、火曜の証しも、ろばのこサーバーに2016年から 2010年くらいまで 400人以上の証しが掲載されているので、ずっと、2016年から遡って聞いていて、たくさん恵まれます。 みなさん ひとりひとりに、集会に導かれる前に 心を耕される この世での試練。それから、ケリテ川や ツァレファテを体験されているんだなあと思いました。

 で、メーリングリストのお世話してて、集会になかなか来れないメール友達や、集会に来れなくなったメール友達もたくさん居るので、よく、メッセージが長くて聞けなかったら、証しだけども聞いたらって言うんです。そしたら、ある友達が言うのです。

 言われて、ふたつみっつ証しを聞いたら、どれも、たいへんな試練の証しで、聞いてて心がさらに重くなった。おまけに私にもこんな試練が来たらどうしようと不安になった。

 それって、聞くところが、おかしいわと思ったんですけど。わたしたちは試練や苦難に出会いますが、その試練や苦難の中で働いて、慰め、励ましてくださるイエス様のところを聞かないと、たいへんや、たいへんやのところだけ耳をすませてたら、そら しんどなるわと思いました。

 恵みって、困難が触れるほど、恵みが溢れるように思いました。にっちもさっちも行かない時ほど、イエス様の助けに気がつく事が多いと思います。

 わたしたちは、階段からすべり落ちて、淵の中で、はじめて「すべて疲れた人、重荷を負う人は、私の所に来なさい。」と言うイエス様のお声が、クリアーに聞こえるのだなあと思います。



  今週は、自分にとって、頑なな心を耕すために、イエス様は未信者として歩んでいた時に、どんなふうに語ってくださってたのか。また、イエス様の信じてからの歩みの中で、自分のケリテ川がどこにあるのか、ツザレファテはどこにあるのか。 そんな事を考えてくださったら 幸いに思います。


おわり