貧しいけれど 愛されている PART−2
きょうは、2013年の夏に学んだ「 貧しいけれど、愛されている PAR
T−1」の続きて、「貧しいけれど、愛されているPART−2」を学びたいと
思います。
cf:貧しいけれど愛されている P−1
http://hiroba119.kir.jp/2013/2013osaka/2013_0818_Takahashi_MazushiigaAisare.html
イザヤ49章
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
49:16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
いまは、忙しい時期で、夜遅くまで伝票を切っていますが、伝票切りながらニュース番組をつけていたら、NHKのEテレでとても、興味がある番組をしていて、思わず手を止めて見てしまいました。
「ポスト”に託された命 赤ちゃんたちのその後」って番組で、赤ちゃんポストに捨てられた赤ちゃん100人を追跡調査して匿名でインタビューする本当に、取材のぎりぎりまでって感じの番組でした。
8年前に、賛否両論で、熊本の慈恵病院の院長が、子供の命を守るために、赤ちゃんポストを作りました。熊本市内の民間病院にある赤ちゃんポスト。
ポストの扉を開けると、中には親に宛てた手紙があり、それを取ると内扉の鍵が開きます。誰にも知られることなく、いつでも匿名で子どもを預けることができます。男の子は赤ちゃんポストで保護されたあと児童養護施設に移される。
で、その番組で、里親と本人の許可を得て、はじめて赤ちゃんポストに託された男の子がインタビューに答えている。 いま、個人情報とかわかましいから、ぎりぎりの取材と思いました。で、赤ちゃんで捨てられた子も、記憶が残る物心ついて捨てられた子もいる。
ポストの捨てられた記憶のあるケースで、
お母ちゃんと「新幹線でゆりかご(赤ちゃんポスト)に行った。『かくれんぼをするよ』と言って、入れて、そのあと母ちゃんは帰ってこなかった。」
でその男の子は、生みの親とつながるものをずっと大切に持っています。カメラの前にカバンを持って来て出してくれたら、ポストに一緒に置かれていた、靴や着替えです。
赤ちゃんポストに預けられた男の子がこう言ってました。
「お母さんが買ったのかな。
これがいちばん初めて残っているものだから、いちばんの思い出。」
預けられた当初、男の子は生みの親が迎えに来るのを待っていました。
施設の方は
「お母さんが来るんじゃないかと思って靴をいつも持っていて、『お母さん来てないよ』と言われると、ぐずって泣いていた。
小さいころはさびしがっていた。」
とても心の痛むケースです。
それから、別のケースですけど、赤ちゃんをゆりかごに捨てざるを得なかったお母さのインタビューもありました。4年間、施設で暮らし続けている男の子です。母親は引き取りを申し出ていますが、児童相談所は、まだ生活環境が十分でないと認めていません。学生だった4年前、お母さんは下宿先のトイレで1人で子どもを産んだあと、赤ちゃんポストを利用しました。その後、周囲に説得され引き取りを申し出ました。しかし、まだ子どもを引き取る環境が整っていないと児童相談所が判断して、今は定期的に面会を続けています。
赤ちゃんポストを利用した母親「できるだけ早く引き取るのがいいとは思うんですけど、正直自分はまだ母親にはなれていないかなと思います。」子どもの生活の安定を考えれば、里親に託すという選択肢もあるそうですけど、赤ちゃんポストの場合、親が引き取る意思を示している以上、その意思を尊重せざるをえないのが実情です。男の子は結果的に、施設に保護されたままの生活が続いています。
悲しいケースですけど、ともかくベビーの命が、守られた事は感謝なんだなあと思って番組を、見ました。家族がくずれ 愛する事と、愛される事を見失った時代が来ることを聖書はこんなふうに語っています。
哀歌2章11節
2:11 私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。
哀歌4章4節
4:4 乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。
ここには、乳飲み子と表現されていますけど、これは、乳飲み子ではなくて、私たち自身のこの世でイエス様に愛されていることを忘れて迷子になっている私たちの姿をも現わしている。
最初のケースの子供は、お母さんは、きっと自分を迎えに来てくれる、自分はお母さんに愛されていると信じたかったのだと思いました。ベック兄がよく、この世全体が、病院で私たちは孤独病にかかった病人だとおっしゃいます。
しかし、シオンは言った。
「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。(イザヤ書49章14節)
先ほど読ん頂いた15節は、私は忘れられた者であると言う告白に続きます。
この世は、自分は、他者から忘れた存在だ。愛されてないと言う失望に満ちているように思います。それも、ベック兄のおっしゃる孤独病の症状のひとつかなと思います。
みなさん、世界で賢い人で、ホーキングって、宇宙についてよく語る車椅子の学者さんをご存知でしょうか? ステーブン・ホーキングって、めっちゃ賢い人で、私たちって縦横高さの三次元くらいしか想像できませんが、ホーキングは六次元くらい想像できるそうで。ALSの障害を持つ学者として有名で、私より12歳年上です。
ブラックホールについて、彼がいろいろ語ってて、光も何もかも吸い込むブラックホールがあると言う事くらい私たちでも想像できるのですけど、吸い込み続けて、今度ブラックホールが蒸発して消えるって、理論が有名。
ただ、悲しい事に、彼は、神様がいらないと言う発言を頻繁にしています。ホーキング宇宙を語るって、本を読んだら、こんなに広い宇宙に、たとえ神様が居たとしても、その宇宙の片隅の私に目を留められるとは、とても信じられないと、悲しい事を語っていました。
「ホーキング博士 宇宙を語る」って本だったと思いますが、
読んだ時に、「もし、神様がおられるとしても、こんなに広大が宇宙の中の
片隅の銀河の片隅の太陽系の片隅の地球の片隅の私に、目を留められるなんて
とてもないけど、考えられな〜い。」みたいな事があって、あれま〜と思いま
した。
Grand Design(グランド デザイン) って本では、
「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、
自然発生した」と言っちゃいました。
「太陽系以外の惑星を観察すると、そこにはあらゆるタイプの偶然が見られ
る。地球と太陽の間に成立しているかに見える、必然に基づく秩序は、宇宙
の中では例外的だ。
この宇宙には、目的因など神の存在を前提にするような因子は存在しないの
だ。」という確信を抱くに到ったのだそうです。
「宇宙は神の意志に基づいて整然として作られたわけではなく、偶然が積み
重なって今のような姿になった。そこにみられる必然性は、存在というもの
の持つ、単純な性質を反映したものにすぎない。」
ホーキングさんの言う事聞いてると、かわいそうになってくるんですけど、
愛する、愛されるとか、信仰とか、信頼するとか、そう言うのって、頭が良いのと偏差値が高いのと、ぜんぜん関係ないんだなあと思います。
前に、集会の兄たちと、オーム真理教ですけど、すんごい偏差値高い大学の学生さん達が、たくさん居てはって、なんで頭があんなに良い人達が、あんな変なおじさんに黙れるのやろって、話ししたのですが、皆さんも、そう思われないでしょうか。
人間の力で、いくら考えてもだめって事なんだろうなと主負います。
そんなふうに見てくると、人が平安に愛された事を知って生きていくのに大切な事は、「自分を、忘れはしない他者」が存在する事を知る事に思います。
「あなたは、エホバに愛されていますか?」って 逆伝道トラクトが、あって、前に玄関に置いていました。うちは、自営でずっと家にいるので、会衆って言うんですけど、津守会衆の方がよく来られて、お友達になったんですけど。 逆伝道って言うのは、伝道訪問に来られたら、伝道返ししましょうって、トラクトで。
ものみの塔 の冊子に「あなたは、エホバに知られていますか?」って出てくるんですけど、それももじってるのですけど、「あなたは、エホバに愛されていますか?」って
神様は愛ですよって、冊子です。
つっついたら、だんだん会衆の中での幹部の人を連れて来られて、最後、指導者みたいな方が来られて、新世界訳のここ、おかしくないって、j−ばいぶるギリシャ語出したら、向こうは、「王国霊感逐語訳」持って来られて、ザアカイは、なぜ救われたかって、
討論会をした事があるんですけど、ザアカイは、悔い改めて4倍にして返して良い子になったから救われたって、言い張るのですね。
良い子になって救われるんだったら、今日、ここに来てる大阪集会のメンバーは、ひとりとして救われないと思います。
この14日の火曜に、ベック兄も、ザアカイについて語ってくださいました。
ルカ伝
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
「
イエス様は、上を見上げました。そこで桑の木に登っていたザアカイの視線がぶつかったに違いない。ザアカイは、イエス様の眼差しを見た時、急に何をはっきりしたかと言いますと、希望がある、あきらめる必要はない。彼はイエス様が自分の名前を呼ぶのを聞きました。
そして、それと同時にイエス様が自分に対して、何らかの関心を持っていることも、もちろん解ったのです。しかもイエス様は、ザアカイの家に泊まると仰り、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。
ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができたのです。もちろん彼は、それによって導かれ、本物を得るようになりました。イエス様の眼差しとは、愛の眼差しであり、そして今話したように希望の眼差しです。」
もう、これで終わりますけど、最後に、エホバの証人で頑張って、その後本当に、イエス様を知って 苫小牧で牧師されてる方の証しを紹介したいと思います。
エホバの証人の子供として生まれ、その組織と関わって20年。エホバの証人をやめてクリスチャンとなって20年。現在、キリスト教会牧師として人生を歩んでいます。
私の人生は20歳の時、大きく変わりました。「これこそ真理!」と信じてすべてをささげていたことが、実は誤りであったとわかった時のショックは言葉では言い尽くせないものです。もう何も信じることができない、すべてを疑って見てしまうようになったり、自暴自棄になってしまう人もいるかもしれません。しかし人は何かを信じて生きているのです。神なのか、自分なのか、あるいはお金や物質など、人によって様々ですが、私はやはり絶対的に信じることができるのは私たちを創造した神様しかいないと確信しています。
私がエホバの証人をやめた時、そのショックのあまり気が狂いそうになりました。自分を組織に導いた母親を憎み、偽りを語った組織に怒りを心の中でもちましたが、私を立ち直らせたのは神の言葉である聖書でした。
私にとって大きな一つの問いは「真理は何か」という事でした。エホバの証人の組織が真理ではないとしたらどこにあるのか? その答えは聖書の中にありました。イエス・キリストは「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」と語っています。組織ではなく、人や物質ではなく、イエス・キリストご自身のもとに行くことが真理であり、救いであることを確信することができたのです。そのイエスが私たちの罪を十字架の上で贖って下さって、救いの道を開いて下さったのです。
それは神様によって自分が愛されていることを意味しているのです。ショックを受けた暗い心から神様に愛されているという明るい心、希望のある心に変えられました。私たち人間は、自分が愛されていることを知る時、他の人を愛していくことができるのではないでしょうか。
私は現在、北海道で開拓伝道をしていますが、教会員の所にもエホバの証人がやってきます。私は元エホバの証人として、是非、皆さんにお勧めしたいことは「彼らを愛してください」ということです。エホバの証人一人ひとりは良い人たちです。むしろ彼らは組織の教えにだまされて、マインドコントロールされている犠牲者なのです。ですから、彼らにつらくあたるのではなく、彼らに優しく接してあげていただきたいのです。
私は、聖書を通してイエス・キリストが真理であると確信しました。「神や宗教に関わるのは、もう、こりごりだ」と思われるかもしれませんが、ぜひ、真理がどこにあるのかを探求してみて頂きたいと思っています。人生において確信できるものをもって歩んでいくことは、あなたの人生を豊かなものとしてくれると思います。
多くの宗教は、良い子になる事を勧めますが、わたしたちの信仰は、ありのままの私たちに、イエス様の目が注がれていると言う事に思います。
みなさんは、ザアカイがいつ救われたと思われますか。良い子になったから救われたと言う方はいないと思いますが、イエス様の、「きょう、泊まるよ。」って声を聞いた時にイエス様の愛を知って救われたのじゃないかなあと思います。
ルカ19章読んで終わります。
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。