【1】いまの自分を抱きしめてあげてください。
(ありのままの あなたのOKです。)
2015年1月18日(日) 大阪集会 高橋よっちゃん兄
このタイトルのフレーズは、昔、学生時代お世話になった「第ちゃん」って、古川第一郎兄がよく使われたフレーズです。昔、昔、学生時代、オリックス劇場のすぐ裏の 「ニュー・ブーケ」って喫茶店の店主の婦人が、イエス様に救われて、その喫茶店を、何か福音のために使ってくださいと言う事で、定休日だったと思うのですけど、クリスチャン学生のミーティングに使わせて頂いてて、その頃、第ちゃんにお世話になりました。
第ちゃんは、イエス様のためにもっと働きたいって、神戸の改革派の神学校に行かれたのですけど、牧師になられる前に大きな病気をされて腎臓を悪くされて、長い間、透析をされながら、5年くらい前に58才くらいで、召されるまで、埼玉県で牧師をされていました。
その第ちゃんが、よく使われていたフレーズです。第ちゃん自身も、体の弱い自分、たくさんの事ができない自分、不完全な自分で、悩んだときに、イエス様から、不完全でいいんだよ。不完全なあなたを私は、愛していると言うイエス様の声を聞いたそうです。
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本題に入る前に、わたしたちの心をわかりやすく簡単に整理してみると、これは、第ちゃんの受けうりで、ちゃんとした心理学とかそう言うのじゃないのですけど、 まず、「C」 child で、子供の心があります。お腹がすいたら、食べたいし、眠たくなったら寝たい。心のままの心。 やがて、成長してくるとその上に、大人の心「 A 」ができてきます。 お腹がすいてるけれども、今は辛抱しなくてはとか、こんな事をしたら、相手に失礼だとか怒らせることを学んだり、大人の心。さらにその上に、倫理観とか価値観とか、きびしさややさしさや、自分自身を管理する 自分の中の親心 「 P 」があります。
で、人が何かをしたり反省したり、この「P」の心がいろいろ働いてくるのですけど、口やかましくてきびしい「 CP 」criticai なparent と やさしい 「 NP 」 nurturing parent が、私たち自身をコントロールしている。
で、それが、バランスをとれていたら良いのですけど、私たちって、どうでしょうか。
本当に、わたしたちは、この世では学生の時も、社会人になってからも叱られる事が多いですね。
うちの直ちゃんは、年寄り子で、あんまり叱られずに育ったのですけど、中学校に入った時に、中学校が荒れてたので、生活指導の先生とか、最初から悪い生徒を押さえようと必死だったんですね。
直ちゃんみたいに大人しい子に誰も怒ってないのに、先生が、お前らはとか、いわゆる不良の生徒たちの恐い口調で呼びかけてるのが、自分に語られてるように思えて、学校が恐いって、朝ご飯が食べれなくなったり、本当に不登校になるのかと思いました。
自分に対するネガティブな クリティカルな働きかけに、この世は満ちていて、そんな中を歩んでると、自分自身の中で、NP(やさしい親心)がどんどん小さくなって、CP(厳しい親心)が どんどん大きくなっていくのですね。
そうなると、いつも自分の中で、CPが、お前はだからだめなんだ。ネガティブな働きかけをかけてくる。 どんどん どんどん萎縮していく。
前に、いま、子供数が減少の時代にあっても、就活自殺が多いことを学びました。20代の自殺が増えていると言うのが 2009年くらいから問題になって、いる。 単に内定がとれないから自殺したと言うだけではなくて、就活の過程で、なんとか認められたいと西神が消耗していく。メンタルが弱いとか強いとか最近よく言いますが、メンタルが弱い人には精神消耗戦。
息子さんの自殺をオープンにされているお父さんがいてて、関西大学の青木くんて、就活自殺された方なんです。2007年新卒。文学部の美学芸術学専修。自分の専攻にあう就職先なんかなくて、一般企業を受けて、3社の内定をとりつけたんですね。関西アーバン銀行に、家具のニトリ、それにIT系の1社。「まじめで、くそまじめで、優しくて、丁寧で、誠実で。 お人好しで、気が弱くて、ちょっと抜けてて、優柔不断なところがあって
誰もが当たり前に聞き流していくところを、流せない。そんなところあったと思う。」
結構まじめな青木くんは、行き詰まって自殺を選んでしまう。
あるいは、何社も「お祈りしています」って、不採用通知が来るそうなんですけど、
「お祈りメール」がどんどん来るなかで、自分のすべてが否定されているように思えてくる。
この世は、わたしたちを励ます者よりも、ネガティブに私たちを否定してくる者に満ちています。
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それが、この世のことなら良いのですけど、信仰の中でも、同じように、「お前は、愛されているんだよ。」って働きかけより「だからお前は 罪人なんだ。」って 「そんなお前じゃだめだんよ。」ってCPの声ばっかり聞くようになって、 神様のご愛がわからなくなっていく事も多いように思います。
前にもお話ししましたが、集会のメーリングリストのお世話とかしていて、いつも感じさせられるのは、「私はだめだ。」 「私はだめなクリスチャンだ。」と感じてられる方が多いと言うことです。
確かに、イエス様の所にたどりつくには、自分の罪、みじめさ、愚かさを知る事が必要です。そんな自分の罪のためにイエス様が十字架がかかってくださった。 でも、そこから、さらに、進み出すには、だめな罪人の自分ではあるけれども、それにもかかわらず、イエス様に愛されている自分である事を知ること、体験することはとても大事な事に思います。
つづく
LAST【2】いまの自分を抱きしめてあげてください。
(ありのままの あなたのOKです。)
2015年1月18日(日) 大阪集会 高橋よっちゃん兄
これも以前もお話ししましたが、バランスのとれた信仰生活の道行きには、車の両輪のように、罪人で愚かでみじめな自分である事を知る片方の輪と、それにもかかわらずイエス様に愛されている自分であると言う確信の、もう片方の輪が必要であると思います。
ほっとしなけりゃ、福音じゃないと言う事をお話しした時に、「信仰とか、何もしないでも、ただ信じているだけで救われている事を知ること。何もしないでいいことを知る事だ。」と言うことを、学びました。少し誤解を受けやすい表現でもありますけど。
福音がわかると言うのは、イエス様が私たちにくださるOKは、絶対的なOKであることと思います。人間的なOKは、いつも、なになになら OKって、条件付き、「なになになら」ってOKです。 さっきの就活で言えば、「あなたにこんな能力があるなら、OKです。」って OKです。
でも、イエス様が私たちにくださるOKは、無条件の絶対的なOKです。ふらふらした信仰から、平安な信仰の歩みに変えるには、この「神様の絶対的なOK」を体験して知る必要があると思います。
わたしたちが、何か失敗したからと言ってイエス様の私たちに対するご愛が変わることがない。その事を知っていると随分平安になれるのではないかと思います イエス様は 不完全なありのままの私を受け入れてくださった。
神様が、あえて私を選んで下さったと書かれています。
ヨハネ15章16節
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしが、あなたがたを選び任命したのです。
福音は不思議で、イエス様を受け入れる前は、わたしはあなたの心をノックしているよ。開けるかどうかは、あなたが決めてね?って語りかけられる。でも、開けて、イエス様を受けいれたら、あなたの選択じゃないよ。わたしが、あなたを選んだんだよとおっしゃいます。
そして、私を選んだ理由について、
1コリントで パウロは次のように言いました。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
これは、簡単に言うと、あなたが馬鹿だから選んだ。だめだから選んだって、
事に思います。 馬鹿だから、だめだから選ばれたのに、わたしたちは、「こんなに馬鹿でいいのかしら。こんなにだめでいいのかしら。」と不安になって悩んでいるのですね。
悪魔は、しっかりと私たちがイエス様に信頼するのが大嫌いですから、いつも、「そんなお前で イエス様に愛されているのか。」「そんなお前はだめじゃないか。」と問いかけてくる。
そんなとき、わたしたちは、このだめな馬鹿な私が、イエス様に選ばれ愛されているのですと、しっかり立てたら幸いです。
そして、イエス様の私に対するご愛は、1 対 1 のご愛であると言うのを体験する必要があると思います。 イエス様は、確かに世の人を愛された。 そのたくさんの世の人のうちの一人として、私を愛している。そんなふうに思えるなら、私はイエス様の愛が全くわかっていません。教えて下さいと祈る必要あると思います。
イエス様は、たった一人の私を愛してくださっています。
私はルカの15章の 99匹の羊と1匹の羊のたとえ話しは、イエス様は、私たちにその事を教えたかったのではないかなあと最近特に思います。
ルカ
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
イエス様は、人類を愛されて、その罪を赦すために十字架にかかられた。それは、宗教の教義 ドグマにしか過ぎませんが、イエス様は、たった一人の私を愛され 私のために十字架にかかってくださった。 その事がわかる事がとても大切な事に思います。
ルカ
12:6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
ルカ
5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
お前はだめだって、不完全だ、失敗野郎だ、罪人だと、自分が萎縮してくるとき、そんな自分を解放してくれるのは、たった一人の不完全でだめな私をありのままで、イエス様は愛しくださっていると言うことに思います。
交流分析とか精神療法の先生が使われる言葉で ドライバーと アロワーと言う言葉があります。ドライバー(drivers)とアロウアー(allower)
ドライバーって、もっと頑張れ、急げ、もっと強くあれと私たちを駆り立ててくる働きかけです。 ドライバーに駆り立てられてると本当にほっとできない。
ドライバーの心の縛りのひとつひとつを解放するのをアロワーって呼びます。allow は、助ける許すですが、私たちの心が、駆り立てるドライバーに縛られたらそれから、解放する。ひとつひとつ解きほぐすと楽になれると思います。
このだめな私が、馬鹿な私がイエス様に愛されています。その確信がなかったら、メッセージや、証しからも、本当の福音として響いてこないと思います。
最後に、 昔、FEBC放送って、1566khzで毎日夜9時半?10時45分
福音放送をやってて、いまも夜9時30分に AMラジオの 1566khz 一番はしの方にあわせると、福音放送が聞こえます。今年で、61年目。 それをどこにアンテナを立てるかとかラジオをどこに向けるかとか昔流行ったんですけど、今は、インターネット
で聞ける。 ファー イースト ボーロードカスト 極東放送ですね。
クリスマスに、瀬戸内の小島にあるハンセン氏病の施設の長島愛生園の曙教会から放送がありました。そこの信徒さんたち、ハンセン氏病の患者さんたちが、ハーモニカを吹いたり証しをしたりする小一時間の番組でした。それが すごい心に残りました。
で、聖書の中に出てくる長く病気した人って、長血の女が12年に、ベテスダの池のひとりの足なえが38年ですけど、愛生園の患者さんで、患者さんたちが明るかったのにびっくりしました。
イエス様に自分が愛されていると知る事は、こんなにも人を変えてしまうのだ
と思いました。
わたしたちも、もっともっと、イエス様に、この私が愛されていると言う確信をしっかり持つことができたら、幸いに思います。
おわり