【1】信仰生活の成長
2016年5月24日(火)吉祥寺学び会
ベック兄
引用聖句
マルコ伝
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
この間、私達は「信仰生活の始まり」について考えたのですが、今日から「信仰生活の成長」について一緒に考えたいと思います。もう一回、26節を読みます。
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなものです。」
この節は、新生の生涯の始まりについて書かれていますが、27節
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
この節は、新生の生涯の成長について書かれています。それは、種が芽を出して育つという言葉で示されています。誕生は、新生の始まりにすぎません。霊的な誕生も同様に信仰生活の第一歩にすぎない。
新しく生まれた信者は、信仰の従順に至るまで成長しなければなりません。イエス様の御後に従う人生、これこそが人が新しく生まれることの目的に他なりません。信仰の成長のために3つの法則を、ここで見ることができるのではないでしょうか。
第1番目、一歩一歩、成長すること
第2番目、自ずから成長すること
第3番目、見えないものに目を留めること
まず第1に、新しいいのちは、徐々に成長します。28節によると「初めに」「次に」「次に」云々と書いてあります。これは、霊的な成長が順序を追って成されることを意味しているのではないでしょうか。今日もまた同様で、信仰の成長は時が必要です。この段階的な成長について、聖書は確かに多くの事を言っています。
第2コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
栄光から栄光へということは、成長が徐々に進行することを示しているのでしょう。
第2ペテロ
1:4 あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
このみことばは、現在形で書かれてあり、これからも霊的な成長が段階的に行われるということを知ります。新しいいのちの成長のために時間が必要です。それゆえ私達は、お互い信者同士、忍耐をもって相手の霊的な成長を祈って待つことを、学ばなければなりません。
新しいいのちは、徐々に成長します。また新しいいのちは、自ずから育ちます。28節を見ると、「地は人手によらず実をならせる」とありますが、種を蒔く人は、種を蒔き終わったら家に帰って眠っても、別に構わない。
種蒔きは種を蒔きます。けれども成長させるのは、種蒔きの勘定し得ないことです。イエス様はこの地上で活動される時が、わずかに3年間しかないことをもちろんご存知でした。しかしイエス様は、焦ったり先走ったりすることなく、平安と喜びに満たされて、地上での仕事を成し遂げてくださいました。
イエス様は、蒔かれたみことばの種は、時至れば必ず実を結ぶに至ることを、もちろんご存知でした。この主イエス様の態度は、私達が先走ったり、焦って物事を行ったり、忍耐を欠いたりしがちな時に、教訓を与えてくれるでしょう。
イエス様は、いつでも私達の信仰の平安をお与えになりたく思っておられます。主のみことばは、私達が自分の努力や熱意では獲得することのできない、永遠に残る御霊の実を結ばせてくださいます。イエス様は、私達が喜びに満ちて収穫の時を待ち望むことを望んでおられます。
我々の信仰生活において、次の2つの側面は、両方とも極めて大切なのではないでしょうか。まず、私達が忠実に熱心に主に仕えること、また平安と喜びを持って主を見つめ、主が業を成してくださるまで忍耐強く待つことです。
これらのどちらか一方がなくては、健全な信仰生活とは言えません。間違った熱心さは、信仰の平安を奪います。また、主が成してくださるからといって、自分からは何もしないという無気力な態度は、主の働きを妨げます。
喜んで心から主に仕えつつ、魂の平安を心のなかに持つこと、この調和のとれた信仰生活こそ、私達に必要とされます。
つづく
【2】信仰生活の成長
2016年5月24日(火)吉祥寺学び会
ベック兄
へブル書の著者は次のように書いたのであります。
へブル書
6:10 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
6:11 そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
正しい熱心さは信仰による魂の平安を伴います。この両面が、私達がある人を主のもとに導こうとする時に必要です。特別にこのことをまだ救われていないご主人を持っている姉妹がた、また救われていない家族をお持ちの兄弟姉妹が覚えていただきたいと思います。
新生の生涯は、段階的に成長します。またそれは、人の力ではなく、主の力によって自ずと成長していきます。信仰の成長のために、3つの法則があります。すなわち、一歩一歩、成長することです。
次に自ずから成長することであり、3番目、見えないものに目を留めることです。それは必ず実を結ぶようになります。28節には、このことが約束されています。良い種が良い地に落ちるならば、それは時至れば実を結ぶようになることは、議論の余地がない。
これと同じように、新しいいのちも、必ず実を結ぶようになります。しかし、そのためには忍耐深く待つことが必要です。このことは、信仰生活において極めて大きな試練です。新しく生まれた信者は、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊にたとえることができます。ペテロは次のように書いたのであります。
第1ペテロ
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
人が生まれた目的は、いつまでも人に面倒を見てもらわなければならない赤ん坊の状態に留まることではありません。完全な大人に成長するためだとあります。パウロは、この完全な大人という表現を使いました。
エペソ書
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
そのためには忍耐の上にも忍耐が必要なのです。パウロは祈りによって、信じる者の成長のために確かに戦いました。
ローマ書
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
これはパウロの切なる祈り、また願いでした。同じくパウロは、またコリントにいる人々に書き送ったのです。
第2コリント
2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
とパウロは正直に告白したのであります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
ガラテヤ地方にいる兄弟姉妹たちにも、パウロは自分の気持ちを明らかにしてくださったのです。
ガラテヤ書
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
パウロは本当に信じる者の成長のために祈り、戦い続けたのです。
コロサイ書
2:1 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。
つづく
LAST【3】信仰生活の成長
2016年5月24日(火)吉祥寺学び会
ベック兄
今まで私達は、信仰生活の始まりについて、それから信仰生活の成長について考えたのですが、最後に信仰生活の結果について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。3つの点に分けて考えることができる。
第1番目、試練を経ること
第2番目、忍耐強く待つこと
第3番目、見えないものに目を留めることです。
もちろん、パウロだけではなく他の人たち、たとえばヨハネも同じような気持を持っていたのではないでしょうか。
第1ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
これこそ我々の信仰の結実、また目的に他なりません。収穫の時には、すべてが明らかになります。信者の中にも様々な信者がいます。信者になれば、誰でもイエス様を受け入れた者です。
信者は、主のみことばによって新しく造り変えられ、永遠のいのちを持っています。しかし、このような事柄を満たしている信者であっても、その上に何をもって自分の信仰を打ち立てるかによって、違いが出てきます。
つまり、金や銀や宝石で建てる信者もあれば、木や草や藁で建てる信者もあります。前者に属する信者は、神から報いを必ず受けます。後者に属する信者は、主から実を受けることができません。
我々の心の状態が、この事を決定します。もし、信者であって自分自身の事柄を、まず第一にし、主よりも仕事を先立て、集会の兄弟姉妹のことを思うよりも自分の家族を大切にし、聖書に親しむよりもテレビを愛するという信者であるならば、主から報いを受けることは、もちろん無理です。できません。
主は我々を祝福したいと思っています。祝福してくださるかどうか、主が我々をお用いになることができるかどうか、また主が我々の祈りを聞き届けることができるかどうかは、ひとえに我々の心の態度にかかっています。
私達の心の願いが、主が御栄光を受けてくださることであり、主の御心を行うことであるなら、主は我々の祈りをお聞き届けになることができます。私達が愚かにも、自分勝手な歩みをし、自分の願いを祈るなら主はその祈りをお聞き届けになることができません。なぜなら、主の我々に望んでおられる最善の事柄は、私達が主ご自身に似る者となることです。主の形に造り変えられるためには、3つの事柄が必要でしょう。
第1番目、試練を通ること
第2番目、忍耐を持って待つこと
第3番目、目に見えないものに目を留めることです。
イエス様は、試練と苦難を経て十字架に架かって命を捨ててくださいました。イエス様は、小さな一粒の種として死なれましたけれども、この事によって主は多くの実を生み出しました。
多くの実とは、イエス様のからだなる教会であり、主の恵みによって救われた兄弟姉妹です。それ以来2000年の間、その種は成長し続けました。けれども刈り入れの時は近づいています。実が熟するためには、日照りが必要です。収穫の前にはその日照りが最も強くなります。日照りは、成長には苦難や試練を意味する言葉として使われています。
試練の時にこそ、私達は主の来たりたもうことが間近に迫っていることを知るべきです。試練は信じる者にとっては、最も大きな祝福です。なぜなら、その事を通してイエス様をより良く知ることができるからです。もう一箇所読みます。コリント第2の手紙4章17節です。一文章だけですけれども、非常に当時の信じる者の成長の秘訣を現す言葉ではないでしょうか。
第2コリント
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
パウロは、ご承知のように本当に多くの苦難を受けました。けれども、そのパウロがここで、その試練を軽い患難と言っています。つまり、どのような試練であろうとも、来るべき栄光に比較するなら、それは取るに足りないものに思えるのです。けれども、ここで言う「重い永遠の栄光」とは、いったい誰に対して語られているのでしょうか。
その答えは18節に書かれています。すなわち、見えるものにではなく、見えないものに目を留める私達に対して、用意されているのです。目に見えないものとは、自分自身の弱点や欠点であり、また救われていない家族たちであり、また主を否定する友人たちです。アブラハムは、信仰の父と呼ばれている男は、目に見えないものに目を留めて歩んだ男でした。ローマ書の中で次のように、彼について書いてあります。非常にすばらしい約束です。
ローマ書
4:17 彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。
主が我々に何を望んでいるのでしょうか。答えは、エペソ書に出てきます。
エペソ書
4:13 私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
この主のご目的が達成されるなら、信じる者は生きているまま、一瞬にしてその置かれた苦難や試練の場から天に引き上げられます。よく引用される所ですけれども、いつも考えるべき箇所です。
第1テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
いつまでも主とともにいること、この事こそ、我々の願いであり、喜びであり、希望です。初代教会の信じる者が、互いに持っていた心からの願いは、「主イエスよ。来てください」という祈りでした。これは、我々にとっても同じ切なる願いであれば感謝だと思います。
おわり