【1】みことばを聞く大切さ
2016年4月26日(火)吉祥寺学び会
ベック兄

引用聖句
マルコ伝
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。

4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。

4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。

4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」

4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。

4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。

4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、

4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、

4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」


 主イエス様はよく、たとえ話を引いて色々なことを話されました。4章に出てくる一つのたとえ話は、いわゆる種まきのたとえ話です。題名は「みことばを聞く大切さ」であります。いかに大切であるのか、人間の言葉で表現できないのではないでしょうか。

 天国へ行ってみな思うでしょう。もっとみことばを読んだら良かったのに。主は語りたかったけど、聞く耳がなかった。耳があったけど、聞く耳がなかった。これこそ、悲劇的なのではないでしょうか。

 「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」この態度を取る人は、絶対に後悔しないで、大いに祝福されるに違いない。今の読みました箇所を見ると、結局みことばを聞く大切さについて書かれています。

 マルコ伝1章22節には、イエス様が「権威ある者のように教えられた」とあります。イエス様は、偉大な比類のない教師です。イエス様は、誰にでも解るような言葉を用いて、最も深い真理を人々に語られました。

 イエス様は、霊的な真理をお語りになる時に、たとえ話をもってよくお語りになりました。そして、そのたとえ話は、大自然の中から、あるいは日々の生活の中からその素材を取られました。今読まれました箇所を3つの点に分けて考えることができるのではないかと思います。

 第1番目、種まきのたとえとは、1節から9節までです。4種類の土地がありますね。一つは、道端であり、もう一つは、岩地であり、3番目、いばらの中のものであり、4番目、良い地です。

 第2番目、10節から13節までは、たとえの奥義について書き記されています。

 第3番目、14節から20節までですが、たとえの意味についてです。

つづく


【2】みことばを聞く大切さ
2016年4月26日(火)吉祥寺学び会
ベック兄

 4種類の人々が現れてきます。まず、律法学者たち、当時の聖書学者、宗教家たちです。彼らは頑固でかたくなな心を持つ者でした。聞いても解ろうとしない人々でした。

 それから、いわゆる野次馬、感傷的で動揺しやすい人々です。聞いても従おうとしない人々です。

 3番目、当時の民衆なのではないでしょうか。民衆はこの世に執着し、支配されている者です。聞いても実にならない。それから4番目、弟子達ですね。主に対して彼らは心を開き従う用意のある人々でした。聞いた結果として、彼らは実を結ぶようになったのです。

 みことばの働きとは、どういうものでしょうか。聖書全体を見ると、何回も何回も書かれています。すなわち、みことばは、

 一番目、鏡のようなものです。

 2番目、炎です。

 3番目、金槌のようなものであり、

 4番目、食べ物です。

 5番目、光そのものであり、

 6番目、剣のようなものです。

 7番目、真理そのものです。

 たとえの働きについて、21節から25節まで書き記されています。すなわち、みことばの間違った聞き方、それから、みことばの正しい聞き方です。イエス様は、ここではお百姓さんの生活からたとえ話の素材を使っています。土地には4種類の土地があることを示されました。

 第1の土地は、道端です。道は、人々や車の往来で踏み固められており、種は土の中に入ることができません。

 第2の土地とは、岩地です。岩地には土が表面にごく薄くあるだけなので、太陽が照り続くとその土地はからからに乾いてしまいます。また、根を出しても深く根を下ろすことができません。

 第3の土地は、いばらの生えている土地です。いばらは、他の植物の上を覆うようにして育ちます。それゆえ、他の植物は成長を妨げられて実を結ぶことができません。

 第4の土地は、良い土地です。この地に落ちた種は、よく耕された肥沃の土地です。芽を出し成長するだけじゃなくて、多くの実を結ぶことができる土地です。種を蒔く人は、同じであり、蒔かれる種は同じ種ですけれども、その種が蒔かれる土地によって、蒔かれた種の運命が定まるのであります。

 種まきには2つの責任が要求されます。それは第1に、種を蒔かなければならない。第2に、良い種を選んで蒔かなければいけない。種蒔きにおいて、種を蒔く人と種と、どちらが大切でしょうか。種を蒔く人が未熟であっても良い種を蒔くことができます。

 それゆえ、種のほうがそれを蒔く人よりもずーと大切です。イエス様はこのたとえ話を実例として語られたのではありませんでした。イエス様はこのたとえ話について、一言も解説を付け加えようとはなさらなかったのです。

 主は突然口を閉ざされたので、そのことは弟子達には奇妙なことに思えたのではないでしょうか。彼らは、イエス様にこのたとえの意味について聞いたのです。尋ねました。そしてイエス様はそれに答えて、わたしは意識的に奥義を隠して、たとえ話を話したと言われました。

 それからイエス様は、10節から13節までは、主なる神の国の奥義について述べられたのであります。なぜ、イエス様はたとえ話で語ったのでしょうか。たとえ話で語られた目的と理由は、どこにあったのでしょうか。

 イエス様はその宣教においては、福音の真理を誰にでも解るようにあからさまに語ってくださいました。イエス様は、福音の真理をはっきりと啓示なさいました。それを聞いた人々は、イエス様は救い主として受け入れられるか、拒否するかのどちらかの態度を即座に取ったのです。

 多くの人々は、光を愛してイエス様の元に来ましたが、光よりも闇を愛してイエス様の元を去った者もいました。真理を聞く者は、いつでもそれを受け入れるか、拒むかの選択を迫られます。救いを必要としている人々は、イエス様の御許に来て助けを求めました。
 当時の宗教家たち、パリサイ人たちはいつでもイエス様のみことばに反対し、民衆はみことばに対して全く無関心でした。当時、2種類の人々がおりました。救いを必要としていることを自覚している人々、また自分には救いを必要でないと思い込んでしまった人々です。

 第1の人々は、主に対して心を開いていた人々であり、第2の人々は、結局主を拒んだ人々です。イエス様は、みことばを聞く者の大部分が単なる恵みを期待して、集っていることを悟った時からイエス様は、みことばをたとえを通してお語りになるようになりました。

 彼らはイエス様によって、単に肉体が癒されることだけを望んでいたのであり、魂の救いを求めていなかった。悔い改めたくない者は、神の国の奥義について理解する必要はありません。ですからイエス様は、たとえで話をされました。またイエス様を切実に求める気持ちを持たない人々も、理解する必要がありませんでした。

 けれども、みことばを理解したいと思っていた人々だけが、イエス様にたとえの意味について尋ね求めることができたのです。弟子達は、みことばを理解したいと心から願いました。それゆえ、イエス様にその意味について尋ねたのです。

 それゆえ、イエス様は弟子達にだけ、たとえの意味を話してくださったのです。たとえの意味について、14節から20節までに書き記されています。ここで、イエス様は、みことばを聞く人々の中に4種類の人々がいると書かれています。4種類の人々の中で、今話したように当時の聖書学者、律法学者でした。彼らは、頑固で頑なな心を持つ者でした。すなわち、聞いても解ろうとしなかったのです。

つづく


【3】みことばを聞く大切さ
2016年4月26日(火)吉祥寺学び会
ベック兄


マルコ伝
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。

 これらの人々は、ちょうど道のように固く無関心な人々でした。

 第2の人々は、いわゆる野次馬を指します。

マルコ伝
3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

3:35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 野次馬の特長は、聞くには聞くが行わないことです。

ヨハネ伝
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
 この人たちの特長は、感情に左右されやすく、動揺しやすいことです。

 第3のグループは、多くの民衆たちです。

マルコ伝
1:22 人々は、その教えに驚いた。

1:27 人々はみな驚いて

2:12 それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

3:8 大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。

 これらの人々の特長は、神のみことばに耳を傾け、それを喜んで受け入れるが実を結ぶには至らない人々です。なぜなら、彼らはこの世の事柄に心が支配されており、この世の事柄を大切にしすぎているからです。


 第4のグループは、イエス様に対して心を開いて、みことばを受け入れる人々です。彼らは弟子達であり、病を癒された病人たちであり、また多くの婦人たちがその中にいました。

マルコ伝
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

 蒔かれた種とは、主のみことばを指しています。4節から8節までは、繰り返し「種が落ちた、種が落ちた」という表現が出てきます。15節から20節までは、それに対して「みことばを聞く、みことばを聞く」ということばが繰り返し使われています。蒔かれる種は、主のみことばであり、それは良いものです。けれども、その蒔かれたみことばに対して人々がどのような態度を取るかが大切な事柄であります。

 ちょっとだけ、みことばの働きについて考えてみましょうか。主のみことばは、次の7つのものにたとえられています。

ヨハネ伝
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」

6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

 詩篇の作者であるダビデは、次のように書いたのであります。

詩篇
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

 もちろん、みことばは単なる人間のしゃべる言葉ではない。イエス様ご自身です。みことばの働きとは、いったいどういうものでしょうかね。
 まず、みことばとは、鏡のようなものであると、ヤコブは書いたのであります。

ヤコブ書
1:23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。

1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

 主のみことばが、人々の心を写す鏡として用いられるなら、それは、その人が救いを必要とする存在であることを悟らせ、その人は救いを求めて、救いに与かる者になります。

1:21 みことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 みことばは、鏡のようなものです。


つづく


LAST【4】みことばを聞く大切さ
2016年4月26日(火)吉祥寺学び会
ベック兄


 第2番目、みことばは炎のようなものであると聖書は言っています。

エペソ書
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

エレミヤ書
23:29 わたしのことばは火のようではないか。

 主のみことばを、自分に働かせる者は、火が木を製錬されるように、自分自身の心が聖められるのです。

 第3番目、みことばは、金槌のようなものである。

エレミヤ書
23:29 わたしのことばは、岩を砕く金槌のようではないか。

 みことばを自分自身の魂に対して働かれる者は、解放を体験します。自由になります。

ヨハネ伝
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。

 ラザロは、主によってよみがえらされましたが、彼はなお、包帯によって縛られて自由がきかない身でした。ガラテヤの信者たちは、このラザロに似ていた者でした。彼らの状態は、次のようなものでした。

ガラテヤ書
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 パウロは、この解放を体験しました。

ローマ書
8:2 キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 人は神のみことばを、金槌のように用いて、自分の魂を捕らわれているかせから解放することができます。

 第4番目、神のみことばは、どういうものでしょうか。食べ物です。エレミヤはだいたい2600年前に生きていた預言者だったのですが、彼の証しとは本当にすばらしいものです。

エレミヤ書
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

 理解した、解ったのではない。食べた。神のみことばを自分自身の心の中に受け入れる者は、主の御霊がその人の心の内に住んでくださり、その人には絶えざる魂の喜びが与えられます。コロサイ書の中で、パウロはコロサイ地方に住んでいる人々に書いたのです。

コロサイ書
3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 主のことばは、食べ物であり、この食べ物を食べる者は真実の賛美と感謝に満たされます。

 第5番目、神のみことばとは何でしょうか。光です。ダビデは有名な詩篇で次のように確信して告白した。
詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

 すばらしい告白です。イエス様は告白したのです。すなわち、祈りの中なのです。

ヨハネ伝
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

 真理そのものである、嘘を知らないイエス様は、こういうふうに言ったのです。「あなたのみことばは真理です。」

 神のみことばは何でしょうか。第6番目、剣のようなものであるとあります。パウロはエペソにいる兄弟姉妹たちに勧めたのです。

エペソ書
6:17 御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

 神のみことばの力について考えると、へブル書4章12節を覚えるのではないでしょうか。

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 この人間の魂、すなわち人間の理解力、人間の感情、人間の意思を霊から引き離すことは、非常に大切なことであります。主のみことばの剣は、そのことを成し遂げる力を持っています。このように、主のみことばを用いることは、時としておもしろくない。苦痛を伴いますけれども、成さなければならないことです。すなわち、自分の思いではなくて、主よ、あなたの思いだけが成るように。

 最後にみことばとは何でしょうか。真理そのものです。前に言いましたように、ヨハネ伝17章17節にイエス様は、祈りの中で「あなたのみことばは真理です。」と告白したのであります。神のみことばを受け入れる者は、新しく造られた者となります。人間は誰でも、心の拠り所、心の平安、真の喜び、人生の内容、目的、そして生き生きとして希望を持つ必要があります。

 けれども、こういうものはただ、聖書を通してのみ与えられるのです。どうしてでしょうか。なぜならば、主なる神のみことばである聖書は、回心の種であるからです。ヤコブは次のように言ったのであります。

ヤコブ書
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。

 ヤコブだけではなく、ペテロも全く同じことを書き記したのであります。

第1ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 すばらしいペテロの証しですね。

ヨハネ伝
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 主のみことばは、我々に与えられた比類のない宝物です。このみことばを、日々の糧として味わうことこそ、しない者はちょっと気の毒です。主のみことばによって、私達はイエス様ご自身をより良く、より深く知ることができるのです。また主のみことばによって、私達は悪魔に対して勝利を得ることができます。さらに、主のみことばによって私達は、人々を救いへと導くことができます。

おわり