【1】主イエス様と弟子達の違い
4月12日(火)吉祥寺学び会
ベック兄

引用聖句
マルコ伝
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。

10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」



 今の読んでもらいました記事を通して、いかなる時にも決して動揺なさらない主イエス様と、それと対照的に恐れおののきやすい弟子達の気持ちを知ることができるのじゃないかと思います。次の点について、ちょっとだけ考えたいと思います。

 第1番目、堅く立って動かされないイエス様の態度についてです。

 イエス様は、まずすべてをご存知であり、次に動揺せず恐れないお方であり、そして3番目、へりくだって人に仕えるお方でした。弟子達について、何を言えるかと言いますと、弟子達とは何も理解しない者であり、驚き恐れる者であり、また高慢と支配欲に満ちた者でした。考えられないほどの差がありました。

10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

 イエス様は、もちろん前もって全部詳しくご存知でした。イエス様はご自分に定められた十字架への道を前進されようとしましたけど、その時弟子達は恐れおののいたと聖書に書いてあります。弟子達は何も理解できませんでしたし、恐れおののいておりましたし、また一方彼らの心には、傲慢と自分は人よりも上に立ちたいという気持ちがありました。それに対して、イエス様はすべてをご存知であり、どのような場合にも堅く立って恐れることのないお方であり、へりくだって人々に仕えてくださるお方でした。

10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。

10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」


 私達は明日の事でさえも解らない者ですけれども、イエス様はご自分の上に為されようとしている事柄を、一つ一つ全部ご存知でした。イエス様は将来に起こる事柄を、何か漠然とした形でしておられたのではない。


つづく

【2】主イエス様と弟子達の違い
4月12日(火)吉祥寺学び会
ベック兄

 一つ一つを明確にご存知でした。ここでちょっとヨハネ伝から2、3箇所見てみましょうか。

ヨハネ伝
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――

 したがって3年間、このような弟子達と一緒に過ごすのはちょっと考えられない苦しみだったでしょう。

ヨハネ伝
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

18:4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。


 イエス様はご自分が苦しみを受け、十字架上で死ななければならないということを、つぶさに知っていました。けれどもイエス様が、その事を口になさる時には不思議にも一度として、悲しみの口調では語られなかったのです。

 イエス様がこの世に来られたご目的は、多くの人々のための贖いの代価として、ご自分の命を与えるためだったのです。イエス様がその御業を半ば終えられて、今や十字架にお架かりになるために、エルサレムへの途上にありました。エルサレムとは、イエス様にとって人々に退けられ、辱めを受け、苦しみを受け、十字架を担い、そこで死ななければならない土地であることを示しています。けれどもイエス様は、この途上において弟子達に対して、御自分の決意を語られたのです。


ルカ伝
9:51 さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

 イエス様はいかなる時にも、ヨブ記11章15節に書かれているように、堅く立って恐れることがありませんでした。

11:15 そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。

 イエス様は、ご自分の命を多くの人々のための贖いの代価として、捧げることをよくご存知であり、またその事を心から望んでおられました。マルコ伝の中心なる言葉は、マルコ伝10章45節なのではないかと思います。

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 イエス様が弟子達の上に望んでおられた事は、弟子達が人々を砂どる漁師にすることでした。そのためには、徹底的に自分自身を知ることが要求されます。イエス様は、弟子達とは全く違った御心をお持ちでした。

 またイエス様の御目的と弟子達が心の中で願っていた目的とは、全く違ったものでした。それゆえ、まず弟子達は自分自身の心の状態に、目を開かなければならなかったのです。弟子達の心の奥底に潜んでいるものが明るみに出されなければなりませんでした。

申命記
8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 イエス様は、まことの意味で偉大であるということは、どういうことであるかということをお示しになりました。そして、人々の下に立ち、人々に仕えて自分の命を人々に捧げなければならないということを、お教えになりました。そして、その模範をご自分がお示しになったのです。イエス様は、僕の形をとってこの地上を歩まれ、その成してくださった御業は、僕の業そのものでした。

マルコ伝
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 イエス様は、どういうふうに仕えたのか、どういう心構えを持っていたか。ヨハネ伝13章を見ると次のように書かれています。

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

 ピリピ人への手紙の中でも、その事実について説明されています。

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 少しの躊躇も動揺もなく、イエス様はエルサレムへの道をまっすぐに歩み始められました。私達もまた、ちょうどこの主イエス様のように、我々の人生の目的を充分にわきまえて歩みたいのではないでしょうか。

申命記
5:32 あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。

ヨシュア記
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。


つづく

【3】主イエス様と弟子達の違い
4月12日(火)吉祥寺学び会
ベック兄

 似ている箇所はいっぱいあります。

箴言
4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。

4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。

4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

エゼキエル書
1:9 彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。

1:12 彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。

 そしてイエス様は、当時の弟子達に言われました。

ルカ伝
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

 パウロも、いわゆる甦りの書の中で書き記したのです。

第1コリント
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 またパウロは、コリント地方にいる方々を励ましたのであります。

ガラテヤ書
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 ペテロも当時の信じる者を励ましたのです。

第1ペテロ
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。

 それからパウロはまた、ピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ピリピ書
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 イエス様だけではなく、本当の意味で主に従う者も、同じ態度を取るべきなのではないでしょうか。すなわち、少しの躊躇も、また動揺もなく、目標を目指して走るべきです。
 弟子達の態度とは、いったいどういう態度だったのでしょうか。前に言いましたように、恐れおののく態度でした。従うことを躊躇する弟子達だったのです。弟子達について、何を言えたかと言いますと、弟子達は何にも理解しない者であり、驚き恐れる者であり、また高慢と支配欲に満ちた人々でした。

 前に話したように、イエス様は弟子達の思いとは全く違うものでした。イエス様のとられたイエス様の思いと、いわゆる弟子達の態度とは、全く対照的でした。弟子達は驚き動揺し、イエス様の後について行くことを恐れたのです。

 イエス様は、弟子達に先立って歩まれ、彼らの模範を示されました。けれども弟子達は、驚きまた恐れました。もう心配でいっぱいでした。弟子達はイエス様に出会い、主イエス様が神の一人子であるということを、もちろん確信したのです。そしてすべてを捨てて、このイエス様に従うようになりました。

 彼らはイエス様と共にいて、実にたくさんの事を経験しました。何千もの人々がイエス様のみことばを聞こうとして、御許に集まってきました。そして、何千人とも知らない人々がイエス様によって、食事を与えられました。

 また御許に運ばれてきた病人たちは、みな例外なく完全に癒されました。当時のパリサイ人たちは、何とかしてイエス様を陥れようとしましたが、いつでも敗北せざるを得なかったのです。悪霊でさえもイエス様を神の御子であると証しし、死人もよみがえらされました。弟子達はイエス様を信頼しておりましたし、彼ら自身多くの事を経験しました。

 多くの奇跡をその場で見ました。弟子達は3年間、イエス様と行動を共にし、また、この方こそ約束された救い主であるということを知るようになり、確信するようになりました。けれどもイエス様は、全く唐突に御自分の十字架についてお語りになりました。

 イエス様は、御顔をまっすぐにエルサレムに向けられました。それまでのイエス様は、弟子達と親しい友達のように交わりましたが、その時のイエス様は、今までと違って全く別人のように見えました。弟子達はもはや、イエス様の御心をおしはかる事ができませんでした。

 それゆえ、彼らは驚き恐れたと聖書は言っています。けれどもイエス様は、堅く立って動かされることがなく、十字架への道を歩み出されました。それゆえ、イエス様は弟子達にとってその時、見知らぬ他人のようになられました。主イエス様の御心は、弟子達の考えとは全く違うもの、異なっていました。

 弟子達は、彼らとイエス様との間には大きな隔たりがあるということに気づかざるを得ませんでした。


つづく


【4】主イエス様と弟子達の違い
4月12日(火)吉祥寺学び会
ベック兄


 私達は、ところでこの事をすでに体験しているのでしょうか。私達が突然、イエス様について理解することができなくなり、導きの道が何であるか解らなくなり、私達の心は闇の中に閉ざされ、驚きと恐れに満たされるということが往々にしてあります。このような時、私達は預言者ミカがとった態度を取ることができれば、本当にありがたい、幸いなことです。

ミカ書
7:7 しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。

7:8 私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

 すばらしいミカの告白です。もし私達が、この態度を取るならば主に従うことは大きな喜びとなります。イエス様は、本当の意味で偉大な者とは、どのような者であるかということを語り、それは人々に仕える者であり、自分の命を捧げる者であると言われたのです。

 弟子達が考えていた偉大さは、主の考えとは全く違うものでした。つまりそれは、人々の上に立ち権力を持ち、人々が自分に仕えるようになることだったのです。イエス様が御自分を十字架についてお語りになる度に、弟子達とイエス様との決定的な違いが明らかになったのです。

 そして弟子達は、そのたびにお互いの上列をめぐって、いさかいを引き起こしたのです。イエス様は、御自分の益のためには何一つなさらなかったお方です。けれども、弟子達はいつも自分の事しか考えられなかったのです。

マルコ伝
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

 「私達の頼み事を叶えていただきたい、私達を座らせてください、私達はできます。」と自己中心の願いを語ったのですね。けれども、これらの言葉から解ることは、彼らが自分自身に対しても全くめくらでした。自分に対して目が開かれていない者は、他の人々に対して妬みを持ったり、競争心を持ったりします。

マタイ伝
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 弟子達の持っていた最大の問題は何だったでしょうか。自分自身について何も知らなかった事です。その印は、第1にうぬぼれ、第2に、自分の力に頼ることです。

マルコ伝
10:39 彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

 この2節を見れば、彼らは自分たちが何か偉い者であると考えていたことが解る。彼らは、自分たちがイエス様の右と左に座るにふさわしい者であると思い込んでしまったのです。彼らは、自分自身を信頼することが非常に強くありましたが、他の弟子達も同じ思いでした。

ヨハネ伝
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

マルコ伝
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

ルカ伝
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

 このような、自分自身により頼む気持ちは、いつでも敗北に終わります。主の約束は、うぬぼれの強い者に対しては与えられていません。謙遜な者に対してだけ与えられます。聖書全体は、それをはっきり何回も言っています。

詩篇
138:6 まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。

箴言
22:4 謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

29:23 人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。


つづく

LAST【5】主イエス様と弟子達の違い
4月12日(火)吉祥寺学び会
ベック兄


 イザヤという預言者も同じ事を何回も強調して書き記したのです。

イザヤ書
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

 もちろんイエス様も、同じことを強調してくださいました。

マタイ伝
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

ルカ伝「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

14:11 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 ヤコブも結局、全部まとめて書いたのです。

ヤコブ書
4:6 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 聖書の言わんとしていることは、それなのではないでしょうか。ペテロも同じことを言ったのです。

第1ペテロ
5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

 これらのみことばには、主の御心と人間の思いとの隔たりがはっきりと出ています。人間は自分の思いで何かを得たいと思う時、自分の力と自分の知恵を用いて努めます。また、往々にして偽りや他の人々を圧迫するという手段もじさないものです。

 けれども、何かを得るために主なる神は、我々に勧めていることは、我々の持っているものを捨て、また人々に与えることです。捨てる事や与える事は、人間的には損であるかのように思いますけど、主はこの事によって人々にさらにすぐれた恵みをお与えになることができるのです。イエス様は、ある青年に言われました。

マタイ伝
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 弟子達に対しても、イエス様は次のように言われました。

19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

マルコ伝
8:34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

ヨハネ伝
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 パウロも彼自身これを体験しました。

ピリピ書
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 すばらしい証しであり告白です。

おわり